こんなことを考えていると知ったら読み始めるのか、いや読まねぇな


私は直感で本を買う人間だ。
読みたいと思ったら出先だろうと遠征先だろうと買う。
何気なく入った書店でタイトルにピンと来たら買う。
それが1冊2冊ならかわいいものだが、
一気に10冊単位で購入する時もある。
今度買おう、そう思うことはない。
何かを感じたその場で買わなければ、次はない。
手に取った本だって、一度棚に戻せば巷に溢れ返っている雑多な書物に埋もれてしまうのだ。
読んでもいない本のタイトルをいちいち正確にインプットするシステムは、
どうやら私の脳にはない。
だから読みたい本はその場で買う。
そして読む。
読み出したら一気に読む。
丸1日本だけ読んでいてよい日というのはかなり贅沢な日である。
どこにも出掛けず、誰からの電話もなく、
ただただページを繰り、そこに溢れる世界にずいっと入り込める。
贅沢極まりない休日だ。



不思議なもので、
自分の状態がよくない日は本は読めない。
文字を追っても何ひとつ心に入らない。
そんな読み方はもったいない。
作家に失礼だ。
と私は思う。
それに対して、
精神が不健全な状態でもLIVEには行ける。
そこで放出される音とパワーときらきらとみんなの笑顔、そしてアルコール。
つまりはそういった外的刺激でもって自分の歪んだ精神が正される。
自分の感性に直結する音は気持ちいい。
演奏する人のパワーが直に心に響いてくるのは言いようのない感覚である。
もちろん健全な精神で行くのがいちばんなのだが、
多少無理をしてでも行きたいと思っていたLIVEには行った方がいい。
きらきらして帰って来れるのは自分の経験から明らかである。
語弊があるかもしれないが、
受動的でもそれなりに感じられる、
それが音楽の力だと思うし、そうあってほしいと思っている。




しかし、本はそれができない。
読書とは超能動的作業だと思う。
外的刺激を自分の中で変換しなければならないのだ。
心が歪んでいるとその刺激すら感じることができず、
ただ言葉が通り抜けて終わる。
その言葉が纏っているいろんな何かをキャッチできない。
だから精神が良好な日にこそ本を読まねばならない。
いい本なんてじっと待ってたって出会えない。
自分から出会いに行くべきだし、
出会ったそれがいい本かどうかは自分の努力次第。
と私は思っている。
もちろんいくら努力してもパッとしない本もあるのは確かなのだが、
それは相性の問題だから本に罪はない。



いい本を読んだらその余韻は続く。
何度も何度も読む本もあれば、
一度読んだだけでも本棚の一等地に何年も君臨する本もある。
私は自分の価値観で他人にものを薦めることはあまりしない方だと思うのだが、
それでも他人に薦めたい本もたまにある。
逆は、ない。
他人のお薦めを訊くこともない。
「料理長お薦め春野菜とベーコンのパスタ」だとか、
「店長お薦めコーディネイト」だとか、
選択肢の中にない。
自分がいいと思ったらお薦めされなくとも選ぶ。
自身が販売を仕事にしているからか、
お薦めを押し売ってくる人は信用できないし、
薦めてくれたことに対して「ありがとう」とお礼は述べるが、
内心では購買意欲が一気に失せている。
構われたくないんす。






で、朝っぱらから何が言いたいかと言うと、
「○○○○○(私が愛してやまない作家名)読んだことがないので貸してください」
と言ってきた知り合いに本を貸した。
ちょっと癖のある作品が多いので、
初めて読むなら短編が入りやすいだろうと考え、短編作品集を貸し出したのが去年の暮れ。
うん、雪が降ってた。
あれから半年、
「まだ読んでいない」と平気でのたまう彼女。
読むペースとか考え方とか興味関心とか、
そんなものは人それぞれだからいいのだけれど、
読み始めてもいないことを自ら突然申し出てきたことが私には理解不能